私の離婚に関わる人生は、母との関係から始まった
母のカウンセラーになることから始まった
ことの発端は、私が14歳の夏
ある夜、突然、父から「妹が産まれる」と言われた
よくわからなかった
その後も、よくわからなかった
ただ、母がとてもパニックになっていたことだけは、なんとなく、覚えている
母は、今でも、すぐにパニックになる
だから、いわゆる孫の世話、もできない
あのパニックは、昔からなのだろうか?子供の頃からなのだろうか?
昔、母の姉である伯母が、
「フジエ(母)があんなふうになってしまったのは、
原口さんのことがあってからかもしれない」
と言っていたことがあったが、
離婚劇が始まってから、なのだろうか
私は今でも、この時の、
そして、今でも続く、
母の
「親」らしくない
「大人」らしくない
未熟な態度に、とても怒っている
そのため
現在は、母が縁を切ると言ってくれたので
それに従って切ったままにして
もうすぐ3年を経過しようとしている
私にとって
母に巻き込まれない、ということは
私自身の人生を生きる上で
必須の事項なのかもしれない
私の父と母は、私が5歳のときには、
一度、父から母に対して、「離婚してほしい」と切り出している
これは、私が20歳を過ぎた後、離婚訴訟で詳しく語られたことだ
父と母は、決して仲の良い夫婦ではなかった
それは、娘の私が言うのもなんだが、お互い、
かなりの変わり者だからだ
(ということは、私もかなりの変わり者だ笑)
父も、母も、お互い
独特の感性というか、価値観というか、をもっており、
プライドが高く
人に干渉をしない
よく言えば自立しているのだろうか
自分が高スペックで、できる人間だったからだろうか?
人と協力し合うことをしているところを
私も覚えてはいない
強いて言うなら、芸術家肌、とでも言おうか
私はそれを、2人とも、
弁護士と薬剤師という、
独立して仕事を行う仕事をしているせいだと思っていたが、
どうも、そうではないらしい
そういう性格や性質だったからこそ、必然的に、
一人親方的な、職人気質的な仕事に、就いたのだろう
それは、私も一緒だ
で、お互い、ちょっと、いや、かなり?
変わり者の、スペックは高い夫婦
そして、学生運動、ウーマンリブという時代背景もあったように私は思う
母は、当時の女性としては、学力が高かったようだ
母は、今でも、それを誇りにしている
だからこそ、薬剤師という資格を持っているわけだけど、
病院や薬局でバリバリ働く、というタイプではなかった
ドラッグストアなどでの管理薬剤師の仕事が多く、
いわゆる免許貸し、といったふうの
本人も言っていたが、お気楽そうな仕事だった
そのおかげもあり
母は、当時(昭和50年〜60年代)としては珍しい
共働きを実現していたし
(今で言うと仕事と家事・育児を両立している、というやつだろうか)
父は
今にして思えば
あの時代は当たり前の
「男は外で働いて
家の中のことはすべて妻」
という分業ができたのだろうと思う
それくらい
当時の父は
家にいなかった
今となっては
それが
すべて仕事のせいだったのか
はたまた
もしくは
家のせいだったのか
家にいたくなかったから
仕事に逃げていたのか
今となっては
もう分かれ目がわからないけれど
母の中には、
時代背景からきているのか、もしくは、
祖母からきているのかは不明であるが、
夫に養ってもらう良妻賢母の専業主婦という妻像と、
頭がよく仕事をもって社会に出るという女性像の
二局面があった
そのためか
母は、父の隠し子(隠していないので、隠し子とは言わないのだろうが)
問題が発覚してからは
母曰く
父のために働いてきた、というのが
損をしたと言って
私に対しては
養ってくれる夫の専業主婦になった方がいい
と、よく言うようになったものだった
しかし、
反面で
高学歴や頭の良い、といったことに
とても価値をおいていた彼女は
私に対して
ことあるごとに
「どんなにいい大学を出て
いい就職をしても
結婚をして辞めてしまったら(当時はそれが当たり前)
スーパーのレジ打ちしかない(当時は、妻のパートと言えばこれが定番)
だから
女性は資格を取らないと」
と
口を酸っぱくして
私に吹き込んでいたものだった
そうした二面性、両極端の性質?望み?目標?
みたいなものを胸に秘めた私は
「結婚相手を見つけるため」
「幸せになるため」
という理由で
「女性は資格を持っていないと」
の
司法試験を目指すことになるわけです・・・・(続く)